穴八幡宮について
御祭神
應神天皇(品陀和気命)
仲哀天皇(帯中日子命)
神功皇后(息長帯比賣命)
開門、閉門時間
- 拝殿
- 朝6時から夕方5時
- 幣殿
- 朝9時から夕方4時
- 社務所
- 朝9時から夕方5時
- 公衆トイレ
- 朝9時から夕方4時半(それ以外の時間は有料)
御由緒
康平五年(西暦1062年)、奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の折、日本武尊命の先蹤に習ってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請し、永く東北鎮護の社として祀りました。それ以降、慶長・元和(1569年~1623年)の頃まで、この辺りは八幡山と呼ばれ、神木の下に小祠が祀られていました。寛永十三年(1636年)には、早稲田に居住する幕府の御持弓組頭である松平直次がこの地に的場を築き、射芸の守護神として八幡宮を奉祀しました。
寛永十八年(1641年)、宮守の庵を造る為に南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、中から金色の御神像が見つかった事などから、この時より穴八幡宮と唱えられるようになりました。
同年、この地に居住していた幕府の祐筆大橋龍慶が方百間の地を献じ、社殿を壮大に造営しました。この頃、神木の松から瑞光を放ち、また将軍世嗣誕生に際して色々奇瑞のあった事が、たまたま鷹狩の途次に当社へ参拝された三代将軍徳川家光公の上聞に達し、当社を江戸城北の総鎮護として総営繕を命ぜられました。
慶安二年(1649年)、四十二坪の社殿を始め数々の殿舎が竣工し、また大名旗本からも種々の寄進があり、八千八百余坪の境内地に壮麗な建物が櫛比して将軍家祈願所としての規模も整い、以後江戸屈指の大社として重んぜられました。その後も幕府により寛文・延宝・享保・元文と数次にわたり造営、営繕が行われました。特に元禄十六年(1703年)の造営は、江戸権現造社殿として壮麗を極めました。
安政元年(1854年)、青山火事のため類焼し、幕府より造営料として金子三百両・槫木三千梃が奉納され、更に江戸市中を始め十七ヶ国の勧化を免許され再興に努めましたが、幕末の多事と物価高騰の為、仮社殿のまま明治維新を迎えました
維新以降、神社維持の資源であった拝領屋敷地、御旅所、門前町屋、境内山林等の全てを維新政府に上地命ぜられ、氏子も分離し一時は衰微を見ました。
明治十二年、大正天皇の御蟲封を拝命し以来、崇敬者は年々増加しました。その後、大正五年から昭和九年にかけて大規模な修繕を行い広壮な社殿が相次いで完成し旧時の盛観に復しましたが、その後の戦争により悉く社殿が罹災しました。
戦後、いち早く仮社殿により再興し、その後崇敬者の御芳志により、平成元年より慶安・元禄の江戸権現造の当社設計絵図を基に御本殿御社殿等の造営を初め、隋神門や出現殿、鼓楼、手水舎など往時を偲ぶ姿に復すべく再建、境内整備を執り行っております。
取材や撮影、紙面掲載をお考えの方
当社では事前に御相談頂いた上で、宮司の御許可が下りましたら取材等の対応もさせていただきます。その際、以下の点をまず厳守いただきます。
- 取材等の依頼や許可は遅くとも一か月前までに社務所へお問い合わせいただく事
- 社務所へお問い合わせの際には事前に使用目的や内容等を詳しく御準備いただく事
- 御守御札や殿内の撮影は一切お断りさせていただく事
- 冬至祭の取材に関しては一切対応できませんのでお断りさせていただく事
等々、ございますので御了承いただける方のみお問い合わせください。
なお、飛び込みや期限の近いご依頼、明らかに当社における教化活動から外れたご依頼に関してはお問い合わせの時点でお断りさせていただきます。
度々、無断の撮影や掲載、こちらが述べた内容と逸脱する記事掲載、最低限の礼を失した依頼人側の対応があった為、厳格にさせていただいております。御理解の程宜しくお願い致します。