神事高田馬場流鏑馬
神事高田馬場流鏑馬とは
神事髙田馬場流鏑馬斎行日
毎年 十月体育の日
流鏑馬とは騎射の一種で、矢継ぎ早に射る練習として、走る馬の上から矢で的を射る射技であり、平安末から鎌倉時代に武士の間で盛んに行われました。
時は流れ、江戸時代において八代将軍徳川吉宗公は、各家に伝わる古書を調査せしめ、久しく途絶していた流鏑馬の儀式を制定し、享保十三年(1728年)世嗣の疱瘡平癒祈願の為に流鏑馬を高田馬場(たかたのばば)で行ったのが将軍家奉納の穴八幡宮神事流鏑馬の初めであります。
元文三年(1738年)には竹千代(のちの十代将軍家治公)の誕生を祝い興行が行われ、以降厄除け及び将軍家若君誕生の折は流鏑馬が奉納されるようになりました。
高田馬場(たかたのばば)は現在の西早稲田三丁目辺り(現在、水稲荷神社が建っている辺り)にあった幕府の弓馬調練所で、広重描く『名所江戸百景』にも紹介されております。
現在の途中が濁る高田馬場(たかだのばば)は高田馬場駅ができた頃より使われ、駅付近の地名にもなりましたが、実際の馬場とは全く関係が無く、誤った表記ではないかと思われます。
上記の通り、幕府の弓馬調練所であった高田馬場(たかたのばば)は現在の西早稲田三丁目付近にありました。
江戸時代において、吉宗公により再興され将軍家奉納として賑わった高田馬場流鏑馬ですが、明治の頃から中絶し、高田馬場自体も廃されました。
その後、昭和九年五月に皇太子(上皇陛下)御誕生奉祝の為に穴八幡宮境内で再興され、戦前においては数回執行されましたが、戦争により再び中絶となりました。
戦後、昭和三十九年に水稲荷神社が現在の西早稲田三丁目付近に移ったのを機会に、流鏑馬の古式を保存する為、水稲荷神社境内において復活し、例年体育の日(10月10日頃)がその実施日となりました。
昭和五十四年からは近くの都立戸山公園へ移し、昭和六十三年には新宿区の無形民俗文化財に登録され現在に至ります。